2020年07月09日

薬にも毒にも

経営者にとって人事は大切です。また、新規採用においては、更に慎重になるも当然です。

「この人を営業で採用するのは、会社にとってどんなものか?」

「この方は、古株のうちの工場長と上手くやれる人でしょうか?」

「この人から仕事を紹介されましたけど、信じて取引をするべきか?」

「顧問としてこの先生、いかがでしょう?」

 

私は、対象者の名前と生年月日、分からなければ大体の年齢(50代前半とか)をお聞きします。すると、「それが分からないと、分かりませんか?」と聞かれます。そうではなく、大神さまにお伝えするためです。

 

占いではありませんから、生年月日がないと分からない訳ではありません。かと言って、名前で視ているわけでもないのです。

というのは、以前、自分でも驚いたことがあります。同じ日に、同姓同名の方が別々の御相談者の中で、それぞれに登場しました。どういうことかと申しますと、午前中の御相談者が、好意を寄せている相手として『山田太郎』さんの名前を書いていました。そして、午後からの御相談者の用紙にも息子の進路についてとして『山田太郎』とありました。大神さまの御神託によると、二人のそれぞれの思考、性格、人となりは、全て相違していました。

因みに、双子でも生年月日で視ている訳ではないのでそれは言えるのです。

 

仮に、生年月日や姓名判断的なことで視るのならば、御神託は一緒でしょうが、大神さまはそれぞれの『たましいの形質』を視られるので同じであるはずがありません。

何故ならば、それは、昨日今日形成されたものでもなく、また今世、生まれ育った環境にて構築されたものでもなく、幾転生もしてきた転生輪廻の中で培われたものだからです。

 

周りを見渡して思いませんか?何やっても、ひょうひょうと上手くいく人がいれば、いつものさらない人もいる。(のさらないとは、宮崎弁で“運のよい”とか“授かる”って意味です。なんで宮崎弁か?って、私は父が宮崎出身でしたからね。鹿児島弁だと思ってきた宮崎弁がたくさんあるみたいです。でも、ニュアンス的に方言がぴったりな時ってありますよね。)

御神託でも「初めから、神輿の上に乗っているから大丈夫じゃ。」と云われる人がいたり、「生きよ。いいな。生ききるのじゃ。」と重く云われる人もいます。

 

大神さまは、「人は過去世、今世、来世に於いては平等じゃ。」と云われます。

「今世、あの者は恵まれておるが、前世は苦労したたましいの持ち主じゃ。」とか、反対に「来世は、いばらの道なり。」とか。だから、今世のみで人と比べることなど無意味です。

まだ転生の続く中では、毎回つつがない前世を送って来ている人と、何度も難病や障害を持って生まれて来ている人の経験からくる学びや気付きは、当然同じではありません。因って、この世で、実年齢が同じだからといって、たましいの高尚さも一緒という訳ではではないのです。反対に年を重ねた人が、全て正しく立派だとは限らないし、子供でも高尚なたましいの持ち主がいるということです。

 

道路交通法で飲酒運転の罰則が改正され厳しくなったのも、過去に犠牲となった子供たちが存在しました。飲酒運転のトラックが自家用車に追突し炎上、両親は車の後部座席のチャイルドシートから幼子二人を救い出すことが出来ませんでした。それから、ここ数年前にも、飲酒運転の車に追突された車から、子供三人が夜の海に投げ出されて尊い命が失われました。また、児童虐待防止法はありましたが、早朝よりひらがなを書かされ、ネグレクトを受けていた子、実の親から身体的・性的虐待を受けていた子、そんな子供たちの事件を受けてこの2020年4月に法改正がなされています。

 

犠牲になった、いいえ、なってくれた子供たちがいたからこそ、法律が出来、改正もされたのです。だから、“可哀相”ではなく“ありがとう”なのです。

 

私たちのたましいは、現在の人霊にまで進化して来ていると耳にしたことはありませんか?元々は鉱物霊から始まり、植物霊へ進化し、そして動物霊に。動物としての最終系は人命救助犬、盲導犬、介助犬などです。中には、忠犬ハチ公やフランダースの犬のように、役どころはなくても人間の言葉や心を理解したりする動物たちもいます。犬が一番人間に近い生き物だと言われていますが、あれは“たましいが”ということだと思います。勿論、飼い主が発作で倒れていることを、いつもと違う鳴き声で知らせた猫だっていますから、犬に限らずですが。

 

そして、人霊として生まれるようになると、いろんな人生を辿っていきます。生まれ変わる目安はおおよそ400年から700年に一度といったところでしょう。皆さんの前世を霊視する中での目検討です。でも、中には自分の前世を覚えている人や、御神託で伝えられた前世を自分でも繰り返し夢で見ているという人もおります。一致していますので、間違ってはいないはずです。ただこれは、天寿を全うした場合ですけどね。そうではなく、災害や事故、他殺などの不慮の死によってその命を終えた人は、数十年後には生まれ変わっています。あるお母さんが幼児の息子を連れて御相談においででした。男の子なのに、ブランコや自転車に乗せると異常に怖がると言われましたら、大神さまは「この子の前世は、阪神淡路大震災で被災し、死んでおる。だからなぁ、振動や揺れを怖がるのじゃ。命半ばであったため早くに転生となったが、たましいがまだ覚えておるなぁ。」とその原因を云われました。確かに本当の地震とあらば、そのパニックぶりは尋常じゃないそうです。

 

生まれ変わるたびに、国も性別も違う中で裕福に育ったり、親を早くに亡くしたり、美形に生まれたり、病気が絶えなかったり、お金で苦悩したり・・。ありとあらゆるパターンで生まれ変わります。そしてもう、いよいよ後1,2回生まれ変われば、神の元に光の粒として居られる、人間としてわざわざ肉体を持つほどの学びが残っていない高尚なたましいの持ち主たちが、法律を変えるほどの大義を持ってその痛く苦しい役目を担いに生まれて来てくれているのです。事件や事故の幼い被害者たちは、自分の人生を幸せに長生きすることが目的で転生して来ている訳ではないのです。

 

だから、故人を充分偲んだら、「ありがとうね。あなたのおかげで、法律が出来たよ。すごいね、やったね!」と労ってあげると、その高尚なたましいたちは報われたと喜ぶのです。

 

(不思議なものです。今回のお便りでまさか、児童虐待のことに触れさせられるなどと思ってもいませんでした。お便りはいつも思い付きのように、その場で一気に作らされるからです。今回は少し取り掛かりに時間を要しましたが、それでももうお便りは出来上がっており、公開を待つ状態でした。そこに、またしても、三才女児の虐待死事件。本当は、私だって“ありがとうね”なんて簡単に言えない。胸が張り裂けそうです・・・・・。)

 

私は子供の頃から、大人に対し『怒られるのは分かるけど、あの怒り方はないと思う。』などとよく思っていました。だから、子供たちにも言っています。

「年が上というだけで、相手がみんな正しい訳じゃないからね。おかしいと思ったら、意見を言っていいんだよ。」

日本が1994年に批准した“児童の権利に関する条約”の中にも、子供が意見を言う権利について明文化されています。そして、もっと言うと、改正後の児童虐待防止法においては、確証がなくても疑わしい場合は、福祉事務所や児童相談所などへ通告の義務が発生するようになっているのです。匿名でいいのです。間違えてても罪には問われません。私は個人的には、この問題も飲酒運転ほう助のように、なんかおかしいと気付いている人が通告していない場合は、その義務を怠っている。つまり、それをほう助している訳だから同罪で一緒に逮捕されるべきだと思うのです。それくらい、“何かをしてでもわが身を護らんとする”心理を逆利用しないと、今の時代『事なかれ主義』にて、“何もしないことでわが身を護ろうと”しか考えていない残念な人間があまりにも多すぎます。

 

話を戻します。

幾転生もして来た中で培って来た“たましいの経験値”からなるものが『たましいの形質』となっています。生まれ育った環境から一朝一夕に形成されるものではありません。

 

何度も伝えていますが、神事は占いでも鑑定でもありません。ただ、私は学んだことはありませんが、占いや鑑定(姓名や易学など)にも精通しているのかと驚かれたことはあります。

なんなら、ホストを好きになった女性の御相談者が、源氏名しか分からないとのことでお訊ねしましたが、大神さまは見事にそのホストの性格や思考を視せてくださったこともあります。あだ名でも同じです。

 

“人を視る”時、御神託を伝えていると、

「彼が同じ事を言っていました!」とか

「全くその通りのことをされました!」とか、よく感嘆されます。

「なんでそんなに分かるんですか?もしかして、知っておられるのですか?」

などと皆さんに聞かれますが、勿論存じ上げません。ただ、私は昔から知っている人のような感覚になるだけです。

「ほら、彼って○○なところがあるじゃない?」という、私自身が御相談者にも対象者にも共通する幼馴染のような、クラスメイトのような、兄弟のような、叔母のような、そんな感覚。

過去を振り返るような、思い出を語るようなそんな感じです。

対象者が日本人じゃなくても、亡くなっていても、人間じゃなくても同じように分かります。

 

さて、冒頭の話に本線に繋げますが、その御神託の中で

「あのなぁ。採用するなら、この者は扱い方によっては、会社にとって“薬にも毒にもなる”存在になるからな。」と云われることがあります。

接し方や関わり方によっては、会社のガンにさせてしまうこともあるというのです。そんな時は、大神さまはそこで御神託を止めず、その方が入社後どう立ち回るのか、周りとの兼ね合いはどうか、だからどのように向き合ったらよいか、どんなことに会社としても気を付けていたら良いかなど、細やかに御教示くださいます。

 

このように、大神さまの大御稜威によりて“人を視る”ことや“他心をとる”ことが可能ですから、診療科を決定するためにおいでになる研修医もおられますし、教員の方が担任の学級経営のために子供の個性や指導の在り方について御相談なさったり、また裁判や調停に挑むに当たり相手の出方を心積もりなさる方、会社で上司にどう思われているかを聞かれる方、交際相手が自分との結婚をいつくらいに考えているのか気になる方、もう疎遠になってしまったけど、誤解から喧嘩別れしてしまった友人の気持ちを知りたい方、交通事故の相手の本心、転職したいが次の職場の人間関係などいかがなものか、と挙げたらきりがないのですが、とても参考になると喜ばれています。

 

そういえば、以前サプリメントについて御相談なさった方がいました。

「友人がとっても元気になっていて、話を聞いたらサプリメントを飲んでいると言いました。私もそれを飲み始めたのですが、どうもそれから調子が悪いような気がするのです。」

神殿に向いて御神託を頂くと

「友人にとってはサプリメントじゃが、そなたにとっては濃縮した生ごみじゃ。」と云われました。なるほど、合わなければそうなりますよね。

 

ところで、この“神職のお便り”は毎回翌週分も出来ていて、

「あのさ、実はもう次回分あるんだよね。先に見たいなら500円でみせてやろうか?」なんて子供たち相手に商い仕掛けてるくらいなのですが、今回はギリギリになってしまいました。前回の内容にものすごくエネルギーを取られてしまったからです。

 

ホームページ制作を依頼した、ARIO(株)の奥田さんに毎週木曜日、朝から私のパソコンを遠隔操作して頂き、お便りを更新してもらっているのですが、大体水曜日くらいには先に一度、目を通して頂いています。そして、いつも心からの批評をくださいます。

「(今回の内容を読んで、)ホームページ、ネットの世界におけるコミュニケーションが文字という部分にて、その方の表現力次第で武器にもなり、精神安定剤にもなりうるのかもしれません。」

とは、私に起こった事故レベルの出来事に過分な程の共鳴りをしてくださった上での、奥田さんからのコメントでした。私は『文字は刃物と同じだ。凶器にも護身用具にもなる。』と思っていましたから、奥田さんの『(言葉が)精神安定剤になる。』という、更に上空からの見解には自然と頭が下がりました。やはり、このお方は頭が良い!普段の会話の中でも、また仕事の早さや正確さは遠隔操作されているパソコンを見ていて毎回惚れ惚れするほどです。きっと、パソコンを乗っ取られてニヤニヤ喜んでいるのは私くらいでしょう(笑)

ディレクター兼カメラマンという生業らしく、センス溢れる先の言い回しは、実際に奥田さん自身が大神さまより御神託を賜わった時にそう感じてくださったようでした。

また、毎回私に「あぁ、ちゃんと読んでくれているなぁ。分かってくれているなぁ。」そう、思わせてくれる女性の存在もあります。先日も、前回の私のお産のエピソードを私以上に回想してくれて、「(これ以上血圧が上がらないように)刺激になるといけないからと、カーテンも開けさせてもらえず、テレビも付けさせてもらえず、そんな中で頑張ってたもんねー‼」と、まるで、自分の事のように喜怒哀楽を見せてくれました。

 

なんて有難いことでしょう。私は、それで報われています。だから、こうしてまたお便りを認めることが出来ました。私も一介の人間ですから。神域を預かる役目の中で、街なかにはない私の今世の学びがあるのは覚悟していますがね・・。

 

蓋を開けてみると、“開設させられていた”このホームページですが、須佐之男命さまに「お前に世の中のレベルを見せるために開設させた」と言われた通り、私の視界からは完全に二極化して見えるようになっています。非常識な方は、再三お願いしてもしっかり読むこともせず、平気で予約だけをとって終わらそうとするので、厳しいかもしれませんが、「ホームページをきちんとご確認されていませんよね?大切なことを載せていますので、全てご覧ください。その上で、予約のルールに沿って正しくご依頼ください。」と、もう一度やり直し・仕切り直しを求めています。そんな人たちに私が振り回されないように、また気付いて欲しくて懇々と文章を認めているのに、読んでいない。読んでくれない。きっと、言われて仕方なく・・でしょう。もう、その時点で大神さまへの不躾もいいところです。そもそも、私がお願いする立場なら、逆にどんなところか興味も津々で、また少しでも大神さまにも近づきたくて、喜んで“予習”します。

 

本末転倒というか、私にとっては怪我の功名というか、何故か反対に良識のある方が毎回この『神職のお便り』を欠かさず御精読くださいまして、更にその心根の麗しさを増しておられ、私がそれにより救われていることに気付かずにはいられない日々が続いているところです。