2021年09月17日

支援と援助、そして自立

卒爾ながら、氏子の皆さまは、『支援』と『援助』の違いが分かりますでしょうか。

 

『支援』は、教員・保育士・PT・OT・ST・SW・PSWなど、つまり専門家たちによる、なんとなく上からのものを私は感じます。

 

子育ての相談でも親御さまが苦悩されている場合、とかく『支援者』になってしまっているようです。

 

子どもは、代わる代わる違う立場の大人たちから同じことを言われても、逆に鬱陶しいだけで、言われた回数だけ受け止めていくものではありません。

 

そもそも言われるようなことに関しては、子ども自身がいちばん分かっていますし、葛藤もし、苦しんでいるのです。

 

そんな時、大神様はいつも、
『支援ではなく援助をするのじゃ』
と言われます。

 

『援助』は、極力、年の近い仲間や友達によって行われるものです。

 

親を悩ませるような状態にある子どもは、友達がいなかったり、友達と上手く交われていなかったり、ひどい場合はいじめに遭っていたりもします。

 

もしその子にとって、適切な『援助者』になり得る仲間や友達がいれば、子どもはそもそもその中で学び解決し、成長していくのです。

 

掃除機を大嫌いな2歳の男の子がいました。
その子のせいで、親御さんは掃除をすることが出来ずに、日々、困り果てていました。
周りの大人たちは、掃除機のホースを象の鼻に見立て、掃除機自体を可愛くアレンジしたりと試みましたが、やはり泣いてパニックになります。

 

そんな中、逆に掃除機が大好きな5歳の男の子がいました。
笑いが出るほど、この子はとてもマニアックで、メーカーの名や内部の作りまでとことん詳しく、面白いので2歳の子の家に招待してみました。

 

すると、2歳の子が泣くのを気にもせず、人の家なのにコンセントを入れて、掃除機をひっくり返してみたり、動かしてみたりして自分の世界に入っていくのです。そして、
「怖くないよー、ここ見てー!これはねー、アイリスオーヤマの商品でねー、えー!イヤなの?じゃあ、もらっていいの?」
と、自由奔放です(笑)

 

すると、その様子をずっと見ていた2歳の男の子が少しずつ掃除機への警戒心を解いて行き、自分もやってみたいと手を伸ばすではありませんか!
あれだけ同じことを大人がやって見せてたのに。

 

結果的に全く怖がらず、楽しく掃除機でゴミを吸ったのです。
その日で、克服です。

 

そう、これが『援助』なんです。

 

子どもは、特に小さい子は、大人よりも子ども同士から、言葉ややり方を吸収します。

 

ちなみにうちの小六の男の子も、4.5歳の頃からずっと自転車を欲しがっておりましたが、まだ交通ルールも分からないのに乗らせては危ないと思い、三年生で初めて買い与えました。

 

自転車の練習は、小さい頃の方が恐怖心がなく良いと分かっていましたので、きっと三年生からでは怖がるだろうなと思っておりましたら、何の練習をすることもなくひょいひょい乗り回すではありませんか!

 

実は、私の知らないところで、お友達の自転車に乗らせてもらったりして、練習していたようなのです。

 

チーム子どもの援助力、天晴です(笑)

 

そうして人は、『支援』と『援助』を受けて『自立』していくのですが、ここでまた『自立』を誰にも頼らず、ひとりで全てを行い、解決することと思っているならば、それは違います。

 

あくまでもそれが理想ですが、必要な時には、『周りを頼れることも、きちんとSOSを発することが出来る』のも、大切な自立の要素なのです。

 

「経験豊富で、ベテランだから安心して」と言われ、年配の支援者などが付いたとしても、その人が支援の位置から援助のフラットな位置まで降りて来ず、正しきを教えるだけなら、逆に年配ということが足かせになるだけじゃないかと私は思うのです。
(この道が長いというだけで、大昔に取った杵柄をいつまでも通用すると思って、振りかざしている怠惰な年配の専門職員が、私は大っ嫌いです。)

 

世の中のニーズも、認知もどんどん移り変わっています。
だから、国家資格などは更新もありませんが、時々は現在の最新の情報や知識にリプレイスするべきです。

 

そんな私の思いに、見事に答えてくださった、日向高千穂神道の氏子さまにおられるある教員の方のエピソードです。

 

受け持つ生徒3人のグループで、ある大会を目指し、取り組んでいました。
ところが、直前になってそのうちのひとりが家庭の事情的なこともあったのですが、参加しないと言うことになり不参加、残る二人で取り組んだものの、当然その結果は芳しくなかったのです。

 

残された2人のうちのひとりは、とてもクールな性格の子であまりこだわっていなかったようですが、残るひとりは、模範生のような生徒で、心から熱心に取り組んでいた為、突然の仕打ちのような出来事を簡単に昇華することが、出来なかったのです。

 

また、その生徒だけでなく、先生自身もどこか釈然としない思いが消えず。そして、この生徒へ、どう接してあげるべきか、それを大神さまへお訊ねしたいということでした。

 

「大人は経験の数だけ、見通しを立てられるけれども、子どもはまだそれが出来難い。教員と言う立場から、分からせようと頭で理解させるよりも、一度その三人とそなたで、場を設けてみなされ。そこで、抜けたその子によって、いちばん聞きたいセリフ『ごめんね』が聞けるかどうかじゃ。そなたは結果が分かっておっても、子どもには敢えて体験させ、その場で胸に落とさせることが大事じゃ。」

 

そして、実行なさった先生より、頂戴したメールです。

 

「こんばんは。お疲れ様です。先週は、急なご相談を申し上げ、大変失礼致しました。お時間取っていただきまして、ありがとうございました。

 

あれから、メンバー3人を呼んで、話をしました。一人ずつ感想を言うようにして進めたのですが、やはり〇〇さんからはお詫びの言葉は出てこなかったです…。「最後まで携われなくて、残念でした。」という言葉は聞かれましたが、それは自分に向けての言葉であって、メンバーに対してではなく、やっぱりね…という気持ちでした。残る二人もその場にいて、○○さんのその言葉を聞き、諦めというか、それまでの人だったのだと納得したようでした。私も、気持ちの整理がつき、落ち着きました。残念でしたけど、これ以上望んでも何もないのだと、前を向いて取り組んでいく気持ちが固まりました。その模範的な生徒にとっても、一区切りついたようで、もう就職試験に向けて、面接指導を受けることに集中して、切り替えることが出来ていました。本当にありがとうございました。

 

大神さまも言われていましたが、観念が違うもの同士だったんだな…と○○さんだけでなく、あと一人のメンバーの発言にも、つくづく感じることでした。

 

今回のことで、私もいい勉強になりました。これまでのように、一生懸命やりたいと思っていても、相手はそうは思っていないんだな…ということにも気づかされました。やろうとすればするほど、遠ざかっていくといいますか…。時代が変わったんだという先生もいらっしゃいますが、そういうもので済ませていいのかな!?とも思います。そういう時代の流れにも対応していきながら、自分の信念とも向き合いながらやっていかなければならないのだろうなとも思います。これからも、このような生徒と感情と向き合いながら、模索しながらやっていくうちに、退職していくのだろうな…と(在職中に答えを見つけたいものです。)

 

慶子先生も、常に学んでおられて、頭が下がります。現場の教員として、忘れてはならない姿勢だと、頑張らないといけないなぁと、励みになります。時々、公私共に先が見えなくなる時がありますが、前を向いて子どもや生徒のために頑張ろうと思います。
本当に、いつもありがとうございます。

 

長々とすみません。今日も一日、お疲れ様でした。」

 

先生、私の方こそ、敬服しておりますよ。

 

「何も懸念せず、立ち回りなされ。」
と、チーム大神の主将より、許可が降りたようですので、お伝え申し上げておきますね。

 

写真は、今現在、私が履修している指定科目のテキストです。
何と、出版が『文部科学省』
すげ(笑)
でも、ちょっと微妙な色です(笑)

 

現職の教員たちに混じって、厚かましくもグループワークでリーダーまでしれっとこなす、私はそうです。神職です。変な神職ではありません(笑)