2021年01月28日

聖職者たるや

先日、ある女性教員が、担任する学級でいじめがあったことで苦悩し、心身共に疲弊して大神さまの大前へお運びでした。

 

「先生、知ってますか⁈いじめがあるのを!!」
ひとりの保護者から電話があり、先生は、そこで初めていじめを把握したと言われます。

 

聞けば、この電話の主である保護者のお子さんに対して、数名の児童がいじめに関わっていたとのこと。また、クラスのほとんどの子どもたちがこれを認識、若しくは不穏を感じていた事実があったにも関わらず、先生はそれにも気が付かず後で知ったとのことでした。

 

「実は、この全く同じメンバーで、以前にも大事(おおごと)がありました。だから、保護者としては、二回目のトラブルということもあり、お怒りも強く、いじめた子どもたちの保護者にも物申す!!的な剣幕なのです。今後PTAなどでも保護者同士、お顔を合わせられるでしょうし…。」
と、先生が力なく仰いました。

 

「なぜ、そのメンバーをわざわざ同じクラスにしたのでしょうかね?記録に残してはいなかったのでしょうか?」
と、私は返しました。すると先生は、
「その後、もう大丈夫だと見なしてのクラス編成でした。」
と教えてくださいました。

 

私はその時、口にはしませんでしたが、心の中で『クラスが違ったから、事が起こらなかったんだなぁ。』と思って聞いていました。
すると、先生からこう言われたのです。

 

「今回、いじめた子たち、反省してくれました。しかし、どうしてもあとひとりの子が、全く聞き入れてくれない。なんで俺だけ…って感じで。実は、以前のトラブル時の解決がきちんと出来ていなかったようなんです。」

 

あぁ、やっぱり。つまり私がふと思った『離間していたから、問題が勃発しなかっただけ』は、あながち間違いではなかったということになりました。

 

来談者の中には、悩みが思考を邪魔するせいで、現況を語るだけが精一杯の方もおられます。
「すみません…。なんて聞いたらいいのか…。」
そんな時には、私がちゃんとおまとめしますから、ご安心ください。
しかし、時には、
「お言葉ですが、この問題を解決したいなら、大神さまにそう聞かれるよりも、反対に×××とお聞きした方が良いのではないでしょうか?」
と、来談者が大前にお運びになられた甲斐を少しでも多く見出だせるために、お訊ね内容に新たな提案をさせて頂くこともございます。
「あー!なるほどー!!そうですねーーー!」
と、感心されることはあってもお怒りを買うことは、後にも先にもないものとしています。

 

これまで、私は神殿にて星の数ほど(?)の人間の萬相談に携わって来ました。勿論、深―――い内容もございます。が、一方では、悩みの解決法としては頓珍漢だったり、また不器用だったりすればこそ、其のが自家製解決法が更に本人を生きにくくさせてしまっている場合もあります。だから、悩みについて、自己解決能力の高い人というのは、物事を多角的に見れて、柔軟性を持ち合わせており、発想の転換が出来る人だと思います。そしてもっと分析すると、そもそも、そのような思考の方はイレギュラーが発生してもそれが悩みになる前に、上手く収めていますもんね。

 

大神さまは、それがまだ出来ないたましいの成長中の方に、惜しみなく違う角度から、解決法や捉え方をお視せくださいます。

 

「人間は、“これは湯呑だからお茶を入れないと。”という。しかし、後ろに回って見てみれば、取っ手が付いているだろうが。実は、マグカップなんじゃ。お茶しか入れられぬことはないぞ。」
人間には思いつかない選択肢や解決策をもつ神の叡智には、ただただ頭が下がります。

 

話を戻します。

 

◎いじめた側の指導が通らないあとひとりの子に、どう向き合ったらよいのか。
◎いじめられた側の保護者には、どう対応すればよいのか。
◎また、今回の件について、周りの職員は優秀な中で自分はどう思われているのだろうか。

 

「先生、御神託はこれらについてで、良いですね?」
聡明なはずの教員でさえ、いっぱいいっぱいで大神さまの前で頭を抱えておられましたから、私はお聞きしたお話の中より枝葉を拾いながら、洩れることなく落つることなく、御神託を賜わるための要約をし、大神さまと先生の仲立ちに取り掛かりました。

 

以下、大神さまの御神託です。

 

「人間はなぁ、犬や猫などのペット、また我が子や社会的弱者に対し、感情をコントロール出来るか否かは、その人間の幼い頃の養育環境に多分に影響するものじゃ。この子が、よい愛着関係を築いてきたとは言い難い。この親の普段からの教えは、その子がきちんと納得する形を取らず、ある程度問題解決に時間を費やしたら『もう、終わり!これ以上言うな。』または、『だから、そんなことになるから、近づくなって言っただろう。面倒くさい!』といった尻切れトンボに終わっている。つまりは、改めるを気付くことなく、関係を断ち切ったり、放置することで終わらせるを正解としておる。だから、友達との関係も“この指とまれ”の一方通行。皆で落としどころを見出したり、折り合いを付けたりは無理じゃ。出来ない。今は、たまたまそれがまかり通っているから、むしろリーダー的な存在になっているが、この年で、もうその姿勢は末が恐ろしいな…。犯罪を犯さねばよいが。あのなぁ、一朝一夕で形成された人格ではない。既に、この子に指導を通すのは不毛じゃ。よって、反対に、いじめられた側の子にケアをするのじゃ。いじめられておきながら、反省しない子に仲良く関わろうとしておる、その気持ちがまたも無下にならぬように。その時にはな、『(いじめた子が)反省してくれないし、仲良く出来ないから、関わるのをもう止めようか。またいじめられるよ。』という言い方ではなく、『ありがとう。君は充分努力してくれているよ。でもね、ここから先は、彼が自分で気付いて自分から関わって来てくれるのを先生と一緒に待とうよ。』というのじゃ。そうすれば、いじめられた子も『僕は、許して仲良くしようとしてるのになぜ?』と苦しまなくて済むからな。また、その保護者へは個別に応対すると共に、念押しとして学級PTAを通して全体に、『今回のいじめの件は、対象者のお母さまに教えて戴きました。ありがとうございました。子どもたちは、時に家庭でも両親それぞれに見せる顔が違うように、教師へも全てを見せてはくれません。もう、良くも悪くも隠せられるように成長しています。だから、みんなで気付いて行かねばならないと思います。子どもたちにも、“違和感を感じたら周りの大人に、例え勘違いでも、あるいは間違っててもいいから、聞きなさい、言いなさい、大人はみんなであなたたちを守っているんだよ。”と伝えています。保護者の皆さま、もう子どもたちは春にはまた次のステージに上がります。これからの姿勢は、見守りは100%としても、介入は極力減らし、自分たちで解決する力を養えるように後方支援しましょう。』という言い方をするのじゃ。そこで決して『気付かずに申し訳なかった。』ということを言ってはならない。これは、責任逃れとかではなく、解決の術が通じにくくなるからじゃ。そもそも、否はなく、それよりも然るべく道に舵取りしてゆくのが、そなたの業だからな。それからなぁ、今回のことで自信喪失しておるようじゃが、周りの職員はそなたが思っているように呆れてなどおらぬ。むしろ、『先生、大変でしたね。』と労いの思いじゃ。優秀な人間たちだからこその感想じゃな。揚げ足を取るような、鬼の首を取ったような感覚などないぞ。だから、そなたこそ『そうそう。これだけ教師生活が長くても、まだまだ学ばされるわぁ。教師冥利に尽きるねー。』とニッコリ笑いなされ。いつか優秀且つ後輩の先生方がそなたと同じように立ち往生した時、そのセリフを思い出し前に進めるであろうからな。」

 

長い御神託でした。先生は、静かに浄化の涙をポロポロ流されていました。私も、トランス状態で口を開きながら、涙で声が上ずっていました。

 

私は先生の肩を抱き締めてあげたいリビドーにかられながら、自分の言葉でこう言いました。
「私は、教師という生業をなさる方を心より尊敬しています。ともすれば、大人からは取るに足らないと感ずるようなことも、おざなりになどせず確乎として対峙されますよね。子どもにも大人と同じように感情があるわけで、身体が小さいからと言って感情も小さい訳ではない。大人と同じように身体中に溢れている。それをどうしても、私たち保護者は忘れがちで、子どもの兄弟げんかを収める時、おおよそ解決したら「よし!みんなで美味しいものでも食べに行こうか!」なんて、一気に俗的に、そこをワープしてしまいます。それを、本当に根気強く向き合ってくださいます。先生、先生は自分が我が子を持たないことについて、引け目を感じておられますが、逆ですよ。天上界は、先生のような方を敢えて配置していると私は思います。実は以前、ある教員が同僚のことで来談されたことがあります。その同僚が行う指導のせいで、不登校児が出て来ていると。すると、大神さまは『その者の子どもたちへの関わり方はプロとしての指導ではなく、家庭内でのやり口に過ぎぬ。自分の家庭で通していることを、他人に押し付ける、ましてや教師の技としてみなせることではない。』と言われたのです。なまじ、家庭があればこそ、その専門性の境界が曖昧になることだってあるのですよ。先生、私は、先生を尊敬しています。仕事について、こんなに真摯に取り組んでおられる先生がここにおられることを、皆に知ってもらいたいのです。お便りに書かせて頂いてよろしいですか?」
そうして、今回のお便りを綴った次第です。

 

有難い!いや、有難いですよ。
我が子だって、時に“いーーーーーっ!!”ってなります。それなのに、他人の子をですよ!

 

このお便りを御精読なさっておられる、教職員の氏子さま、私が保護者を代表し深く拝謝申し上げます。

 

聖職者たる由縁、そこにありきですね。

 

写真は、正しく私が我が子に、“いーーーっ!!”ってなった時です(笑)
一歳児ごときに、負けないぞ!