2021年02月06日

発想の転換

昨年四月、ホームページを立ち上げる際、私は大神さまに、
「事の由を申し上げますと、皆が敬虔(けいけん)することに錯誤があってはなりません。」という旨を申し上げました。すると、大神さまはその時、逆にその過誤を見せられることになると私に言われました。

 

此度は、前回のお便りを御精読頂いた氏子さま方より、沢山の労いの言葉を頂戴し、はたまた私の胸の内以上に毒を吐いても頂きました(笑) 
ありがとうございました。

 

“ペンは剣よりも強し”と言いますから、私はこのお便りの中で、ちっちゃな抗いをさせて頂きました(笑)

 

しかしこの“神職のお便り”ですが、そもそも私にはなんの得もございません。
別に、自己満足や自己顕示欲を満たすためでもありませんし、逆に手を取られ、時間を割かれるのみなのです。また最近は、楽しみに待っておられる氏子さまが増えているのは良いことですが、一方では重責すら感じ始めました。奥田さんが、毎月くださる資料にて、端末は何から、性別はどちらで、何歳代の方が、どの都道府県から、何時ごろ、どれくらいの時間、ホームページ内のどの部分に滞在して…というように情報が全て分かります。

 

『なんでこんなことしてるんだろう。大体、本当に読んで欲しい人は、読んでくれないし。私が、相談をする立場なら、予習も兼ねて、何より神仏のことやこれから自分が足を運ぶ先の処のことが知りたくて、読むけどなぁ。そして、このお便りの中にも、学びや気付きがあると思うんだけどな。』
そう思ったら、なんだか虚無感に苛まれていました。

 

そんな私の心中を察したのか、大神さまが私に発想の転換をくださいました。
「ならば、心待ちにしている者たちの為に認めるがよい。」
なるほど…。

 

前々回の“聖職者たるや”を転載した後は、いつにも増して大きな反響を感じました。
『障害をもつ兄弟に対する当時の先生の姿勢に、子どもながらに疑念を感じたことを思い出しました。しかし、こうして金城先生のところに来られる先生もおられるということが嬉しいです。そしてまた、お便りを通して我が子への向き合い方も学ばせてもらい、感謝しています。』
『先生のエピソードは、思わず涙してしまいました。お便りを読んだ方の心が繋がって、その先生に皆さまからのパワーが届いたら、素晴らしいですよね。』
などなど…。

 

大神さまの云われる通りでした。

 

互いに存在さえ知らなかった氏子さま同士が、会ったこともない中で、認め合ったり、励まし合ったり、何かを感じ合っているのです。それも、高ーーーいところで!
このお便りがそんな縁を生み出していたのです。
そう捉えることが出来た私の心は、また少しずつ高鳴りを始めました。

 

そんな中ふと、思い出しました。
前回、とんだ刺客のことを紹介した訳ですが、私は予てより、
『お医者さまにこそ、起こり得るだろうな。』
と考えていました。
医師になるということは、誰よりも勉強をし、人格形成もなされてきたはず。だから、診察を通し、それとは真反対の生き方をして来た人間と対峙する時のその温度差は、如何ほどであろうかと勝手に慮っていたのです。

 

以前、私が尊敬する整形外科医の院長先生に、私へ起こった出来事を聞いて頂いたことがあります。(お便りにも紹介しました。“それはあなたに”の内容です。)

 

すると、院長先生にもこのような出来事がおありでした。
あまりタチの良くない患者さんが、手術する必要はないのにどうしてもしろと凄み、中々聞き入れてもらえず…。しかし、院長先生は、ご自身の信念を静かに説かれたそうなのです。すると、幸いにも暴力を振るわれることなく、お帰りになられたと。

 

診察室でも、日夜ドラマは展開されているらしい。
こうなったら、神殿劇場も負けてはいられないと思いました(笑)
というより、その応対が情動型の私と違う(笑)
流石ドクターだ!!と感銘を受けたことを覚えております。

 

『実ほどこうべを垂れる稲穂かな』
私の大好きな言葉です。正しくこれが当てはまる院長先生は、お忙しい中でも前回のお便りを御精読くださいまして、
「金城先生に助けて頂いた多くの方が、先生をお守りしたいと強く念じているはずです。平穏に神職として携われるよう、多くの方が願っておられると思います。私もその中のひとりでございます。」
と、勿体ないお声を聞かせてくださいました。

 

また、ある氏子さまで英語講師を生業となさる有能な女性が言われました。
「友人が“ブログ、インスタ、してるから見てね。”と連絡あるけど、見ない。興味ないから。自分の時間が勿体ない。」
はっきりと意思表示されるその姿勢は、外国人そのもので、こちらまで気持ちがいい。大好きです。そして、毎回欠かさず私のお便りはお読みになってくださっていて、コメントを届けてくださいます。

 

中には、日本舞踊の師範で門下生を持たれる氏子さま、そんな妖艶な女性から
「私のためにだけでもいいです。お便り書いてください。」
と、告白のような言葉を手向けられ、照れることも(笑)

 

別な女性は、
「あんなメールを送ってくるヤカラが信じられない。私は、先生に沢山助けて頂いて来て、今があります。私たちが、お守りしますから。」
と、涙を流してくださいました。

 

寝る前に読み返そうとしたら、ツボってしまったとか、JRの中で吹き出してしまったとか、それぞれに楽しんでもおられるようです。
このお便りを楽しみに待っておられる方は、神仏に対して真の信仰心があり、また神仏のことが大好きなのだと私は思っています。

 

そして私が思う真の信仰心の礎とは、以前も認めましたが『人事尽くして天命を待つ』姿勢です。初めから全てを丸投げでなく、自身も限りない努力や工夫を精一杯した上で、それでも立ち行かなくなった時に頼り、また反対に上手くある時もヒントや知恵を戴いて、弥栄なる道に御導き戴く。“委ねる”という姿勢には、自己都合や我欲、決めつけは一切不要なのです。
当たったの、当たらないのの観念から神仏界に触れようとすることは、言うも更なり論外なのです。

 

最も、日向高千穂神道を頼ってくださる方が、全国においでになるということは、当たっていることが前提でしょうが。そうでなければ、当てずっぽうの話に、老若男女氏子さまたちが涙を浮かべて帰られませんから。

 

当たった、当たらないを一喜一憂したい方は、占いのようなところに行かれたら良いと思います。きっと、そこを、いや、そこまでしか受け皿を持っていないはずですから、その奥に秘めたる神秘、感動、更には感服など、神事(かみごと)の深さが理解出来るはずがありません。

 

先日、祖父母に養育されて育った30代の女性がご参拝でした。
「祖母が亡くなった時は、お葬式にも参加したけど、ショックで、その後、間を置かずに亡くなった祖父のお葬式には行かなかったのです。大好きな祖父が火葬されるのが辛くて。でも、10年程経ち、申し訳なかったと…後悔…しているのです…。」
と、泣きながら吐露されました。
「そうですか…。では、おじいちゃんの名前を教えてください。」
とお聞きし、私は神殿に向き合いました。と、同時に笑いを抑えられずに振り返りました。
「婆さんの死に姿がいかんかったねぇ。じいちゃんの死に姿は、良かふうじゃったとに。なかなかよか死に姿じゃったど。うんにゃ、婆さんがいかんかったね~。」
「おじいちゃんって、すごくひょうきんで頓智の利く方でしたか?」
と聞くと、
「はい。大好きでした。とっても、おもしろくて。おじいちゃんが言いそうな言葉、口調そのものだー。」
そう言った女性の顔は笑顔に変わり、涙は嬉し涙に変わっていました。
ずっと引き摺って来た思い(重い)が、晴れた御神託でした。

 

これぞ、神事(かみごと)なのです。

 

私がまた、お便りを認める気になっているのに、そこにはいつまでも寝ない一歳児がいて、
「あー、書かなきゃいけないんだよ、お便りを。」
と、つぶやいていると、
「倒置法使うな。」
と、娘がすかさず、突っ込んで来るのでした(笑)

 

写真は、宮崎の狭野神社境内、浄化の御神光降り注ぐ杉の参道に流れる宮川です。

私は、参詣の度にこの宮川で本水晶をお清めさせて頂いています。