2020年05月21日

ややこしや・・(その2)

『日向高千穂神道』

 

私なりにこだわりがあり、“ひむか”と呼んで頂きたいのです。

屋号を持とうと決めた時、私はある人を訪ねました。今は亡き、高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の禰宜 後藤倫太郎さんです。

 

「倫太郎さん、私は屋号を持ちたいと考えているのですが、日向の高千穂の名を使わせてもらっていいものでしょうか?私を依代になさる大神さまに瓊瓊杵尊さまがおられることも踏まえますが、何よりこの霊験あらたかな高千穂に魅了されて止みません。しかし、それは不躾でしょうか?」と切り出しました。すると、「良いと思います。高千穂は、誰のものでもありません。」と、真っ直ぐ本殿を見据えたまま、口にしてくれました。

 

「確かにそうだ!」と腑に落ちながらも、由緒ある高千穂神社を代々守護する立場の彼から、背中を押してもらうと、やはりそれは嬉しいに他ならず、ひいては自信すらみなぎったことを記憶しています。

 

倫太郎さんは、2時間でも3時間でも人の話を傾聴することの出来る方でした。そしてまた同じように(いや、それ以上に)4時間でも5時間でも、熱く語る方でもありました。

高千穂に訪ねて行き、食事をしながら談笑…のはずが、ご馳走になるはずの美味しそうなウナギを目の前にしながらも、倫太郎さんの独演会に最前列で参加しているような状況になることもしばしばでした(笑)

 

本当に、人間くさい人でした。ある時、私は仲間と3人で国見ヶ丘の雲海を見たくなり、鹿児島を2時頃出発し、6時着を目標に向かったことがありました。時間通りには、現地に着いたのですが、生憎の気象条件で、雲海は拝めず・・でした。残念がっていると、「すみません。雲海をご準備出来なくて・・。」と、申し訳なさそうに後ろに倫太郎さんが立っているではありませんか!似合わない赤のフリースを着て(笑)でも、それ以上に彼の鼻は、真っ赤でした。おそらく、私たちがいつ到着するかを逆算しながら、それよりもかなり早い時間からここで待ってくれていたんです。(私がよく飛ばすのを熟知していましたからね。)それも、車の中ではなく、あの極寒の早朝に外で!私が、さらりと口にした“弾丸雲海行き“を覚えてくれていたのです。私たちは、雲海こそ見れませんでしたが、倫太郎さんの改めての人柄とサプライズの“赤尽くしコース”に大満足でした(笑)

 

そんな彼が、急逝したのは、東日本大震災があった年でした。震災についても、熱く語り合い、(勿論、会話のバランスは不平等ですよ。)会う度の話題は、専らこれから神に仕える立場として、何が出来るか・・でしたのに・・。

 

悔やまれました。あまりにも早い離別に、生者必滅と分かっていても・・。倫太郎さんの奥さまから訃報のお電話頂いた時、血の気が引いた感覚、何を言ってらっしゃるのか、言葉が曇り聞き取れなくなりました。

 

「明日、高千穂へ上がろう。」お電話頂いたのは、そろそろ日付が変わる頃でしたから、睡眠を取って心を落ち着けて行こうと、寝床に着きました。その数時間後、明け方のことです。不思議な夢を見ました。私は何故か上空からそれを見ていたのですが、国旗をそれぞれ四ヶ所持つ巫女たちに続いて、倫太郎さんが俯き、とぼとぼと白い袴姿で歩いてついて行く様子でした。対極の側に見えた山々からは、無数の赤い目が光っていて、歩く一行を見据えていました。とてつもない恐ろしさを感じ、私は咄嗟に『これは、生贄の儀式だ。』と思い、目を覚まし、忘れぬようにメモを取りました。(後に、倫太郎さんのご両親である宮司夫妻へ夢の内容をお伝えすると共に、倫太郎さんのたましいからの言葉を手紙に認めて、お渡ししました。)

 

今思えば、あの時の倫太郎さんはいつになく、興奮していました。

「高千穂神社のすぐ横に道を通す計画について、役所と話し合いというか、もう、喧嘩ですよ‼︎」と。私は、口にはせぬものの『神社の周りはあまり触って欲しくないけれど、年々観光客も増えているし、便利になるのはいいことではないかなぁ。』と思いましたが、それを察したように、彼は「冗談じゃない‼︎」と怒り心頭でした。その時の彼には、それまでのお付き合いの中で感じたことのない違和感を覚えたことを忘れられません。

 

御神託を受けたわけではないので(正直、未だに怖くて聞けません。)、これに関しては主観だと言われればそれまでですが、高千穂神社の境内の一部を、ひいてはあの辺りを一体とする山の一部を、人間が手を入れたこと、ましてや、削るなど地形を変えたことに、山の神が怒りを覚えたのだと・・。星の数ほどの赤目の正体は、その化身である白狐等だったと私は確信しています。また、倫太郎さんの類まれなる怒りの姿は、山の神そのものだったのかもしれません。

 

それと、もう一つ。

彼の身罷りたる理由について、私が思ったことがあります。

先に記した通り、その年は東日本大震災が起こりました。突然の大惨事に亡くなったことを納得出来ない御霊や、ましてや理解すら出来ない御霊がこの世にも、そして、あの世にも溢れていました。寝ている私の枕元には、ずぶ濡れの親子が立ちましたし、その頃は神殿にいつも数名の亡者が代わるがわる座っていました。

津波で肉親を亡くされた方が御相談においでになり、その中で霊界を視ましたら、残してきた子供の行く末を案じたり、自分は死んだようだが半壊した家で家族はどうなるのか、葬儀をするべきだろうがみんなこっちに上がってきてしまった、とか、(肉体の存在ではなくなっているので、痛みは感じないはずですが)痛い痛いと叫んでいたり、見渡す限り、いっぺんに上がってきた御霊等でごった返していました。

 

その中に私は、見覚えのある顔を三名見つけたのです。

まずは、倫太郎さんでした。彼は、惑う御霊等の話を聞き、儀式を望まれれば狩衣を纏い、あの頃と変わらぬ涼やかな音霊で祝詞を奏上していました。相手の感情に巻き込まれることなく、落ち着いた応対は今尚健在でした。次に目を捉えたのは、やはりこの年の震災後に急逝された医師でした。大けがを負い、血だらけの姿で並ぶ御霊等を冷静に診察していましたが、さながら野戦病院のごとし異常な雰囲気でした。そして、ふと横に目をやると、何やら書類を抱えたサラリーマンが、「みなさん聞いてください!。大丈夫です!!」と、声を荒げ、制していました。生前、とんでもない顧客数を抱えていた保険外交員の男性でした。家を流されたり、怪我を負ったことなどへの補償を問う御霊等にまた、押しかけられていたのです。言うまでもなく、後者二人は日向高千穂神道の氏子さん方でした。その時、思ったのです。間違いなく三名とも『呼ばれたな!』と‼

殺到した御霊等のニーズに合わせて、大神さま等により、各界から優秀なる者たちが選抜されていったようです。

 

ところで、倫太郎さんを仲執持ちに、“日向高千穂”の名を屋号に含めむと高千穂神社の廣前に契りを交わしたわけですが、たまにこんなことが生じています。

 

「先生の場所が、同じ宮崎で近くて、よかったぁ。」と初めてのお電話。

「いえ、宮崎じゃないんですよ。鹿児島なんです。」と私。

「あぁ!鹿児島の霧島の方の高千穂ですね‼」

「いえ。そこでもないんです。」

「・・・???」

ね?これがもうひとつの、ややこしや・・なのです(笑)

 

柏手?と思うくらいの清けき音で手を叩きながら、この滑稽なやりとりを見て、目を細めている倫太郎さんの姿が目に浮かびます。

 

・・・倫太郎さん、あなたが大神さまに“えこひいき”されるに至ったあの道路を、私は今でも「意地でも通るものか‼」と遠回りしたり、けれど時には「この道路のせいで!」とわざと踏みつけて通ってみたり、未だに小さな抗いをしているんですよ。

 

開展と豊潤は慶び事なれど、その一方では古来からの信仰に於いては障壁とも成り得るを心に携えながら、それでも調和と協同の融合を微調整し続けて止まない全ての祭祀者の苦悩に共鳴りを感じ、改めて心より拝謝申し上げます。

 

後藤倫太郎命の神霊の御前に、思いは息突かしく語らいは長息の声むせび掻暮す涙に目も視えぬものから、をぢなき神職金城慶子謹み敬ひ恐み恐れも白さく。

哀れ現身(うつそみ)の何時かは荒金の土に返へると呉竹の世に慣にし有れど、汝命や思ひも依らぬ病に罷坐してより、物に就け事に触れては幻現の如く一向(ひたぶる)に汝命の在りし時の事を思ひ語らひ偲び奉りつつ、天伝ふ月日は過ぎ行く任(まにま)に花咲く朝も雨の日も風の夕も常に忘れ難く年月は巡り来て早くも十年の霊祭仕奉る年と成りぬ・・