2025年08月28日

夢に導かれて そのニ

山口県宇部市を出て鳥取県鳥取市の宇倍神社へ参る前、島根県出雲市に寄りました。

 

毎回出雲では、私を依代となさる須佐之男命さまを御祭神に祀る須佐神社を最初に参詣します。

 

これまで数え切れないくらい参詣して参りましたが、今回初めて気付いたことがありました。

 

Instagramに上げている写真に本殿後ろの御神木がありますが、それを見上げていたときです。

 

木の上に須佐之男命さまと並んで馬がいたのです。

 

「あの馬は、須佐之男命さまが宮から宮を移動するときの相棒なんだな。」

と思いました。

 

「神馬かぁ。しかし御神木に神馬が上っているのは初めて視た。須佐之男命さまが上げたんだな。」

 

なんて独り言を言いながらぐるりと一周社殿を回った時です。

 

Instagramにも載せましたが、なんと木馬(神馬)が祀られていたのです。

 

これまで全く気づいていませんでした。

 

『うわぁ〜』と思い手を合わせ、顔を覗き込むと神馬はニヤリと笑って視せました。

 

しばらく見ておりましたが、あれだけの参詣者があるのに神馬に手を合わせる人は誰一人おりませんでした。

 

神馬は私が気づいたことが嬉しかった様です。

 

(ごめんなさい。次回より神馬にも手を合わせます。)

 

これ、実は私が意図せず順路とは反対に回ったことで得た結果でした。

 

当たり前に回っていたら、最初でこの神馬に気づいていたでしょう。

 

そうすると私は御神木の上に神馬がいることを「さっきの神馬ね。」と驚かなかったと思います。

 

その後、向かい側の天照社を参詣しました。

 

本当は神さまの格から言えば、こちらの宮が優先なのですが、御神威で考えるとこの順番でした。

 

Instagramの写真にも載せましたが、それでもこの天照社にはきちんと眷属がおりました。

 

不思議な光が床に写っていますね。

 

以前まだここが鬱蒼としていたときに生えていた植物たちから成った精霊がその正体だと感じました。

 

そして出雲参詣の今回のメインは、以前から心に留めていたもう一つの思いを果たすためでした。

 

その目的はある神社の参詣です。

 

なぜそこだったのか。

 

それは、伊邪那美命さまを主祭神となさっているからです。

 

私は5月に東霧島神社(つまきりしま)から呼び出しを受けていました。(呼び出しの受け方は割愛します。)

 

Instagramをご覧いただいたならお気づきでしょうが、あれだけのパワースポットなる神社で私が境内にいる間、誰ひとりいなかったのです。

 

その時のことです。

 

誰もいらっしゃらないので少し時間をかけられると思い、拝殿にて祝詞を奏上していました。

 

すると本殿の方からドタバタと足音が聞こえたので驚いて目を開けました。

 

なんとそこには伊邪那美命さまが!

 

拝殿の真ん中まで来られると

「ちょっと聞いて!嫌なのよ!一緒に祀られて仲良くとか夫婦円満とか願われるのが!大嫌いなの、この人!」

と伊邪那岐命さまについての愚痴をおっしゃったのです。

 

理由は古事記を読むと明らかです。

 

俗世的に言うと、“醜い死後の姿を見せたくないから来ないでって言ったのに勝手に来て恐ろしいだの醜いだの騒動し、挙句、汚れたと言って禊ぎをする”なんてふざけんなよ!っていう話です。

 

私は伊邪那美命さまが私の生き道をご存知だからこそ、そのお気持ちを共有できるはずだとこの愚痴を聞いて欲しかったのだと実感しました。

 

誰一人として境内に来なかったあの時間帯は、伊邪那美命さまが私との時を貸切になさったからだと思えたのです。

 

ならば、ちゃんとお気持ちを汲んで差し上げるために伊邪那美命さまのみがお祀りされている宮はないものかと思案したとき、「そうだ!出雲のあの神社がある。」と心に留めていたのでした。(それでも伊邪那岐命さまがやはり合祀されていますが…。)

 

そうして久方ぶりに参詣に上がりました。

 

ところが…。

 

お社に直接張り紙が…。

 

なんと残念な光景でしょう。

 

注意書きの内容については分からなくもありませんが、この有り様には正直言ってがっかりしました。

 

しかもマナーを知らない外国人へ向けての他国語ではなく日本語なのです。

 

誤解を恐れずに申し上げますと、拝殿自体に貼り付ける神社の職員のセンスも、またこんな注意書きを書かれるような母国の参詣者たちのどちらにも失望しました。

 

せっかくの神社が台無しです。

 

それでも先に御朱印をお願いしようと社務所へ赴き、神職の負担を少しでも減らすべく「書き置きの御朱印をください」とお願いいたしました。

 

すると「うちは書き置きはありません。」とぶっきらぼうに言われてしまいました。

 

もうダメでした。

 

持って来ていた御朱印帳を出す気持ちにはなれませんでした。

 

伊邪那美命さまと向き合いお話しする気持ちも失せ、無になって階段を下りました。

 

そして気づいたのです。

 

「神職がこんな感じじゃ、伊邪那美命さまは愚痴も言えないし、聞いてももらえないだろうな。」 

 

インバウンド含め、日本人でさえ倫理観や道徳観念、常識や社会通念が低下したり失せたりする中で、私も同じ神域を預かる者として多分に共感できるものを持ち合わせております。

 

しかし人は大神さまを慕う過程で目に視えぬからこそ、間に立つ人間(神職や住職)をその象徴として見立てていると思うのです。

 

だからこその重要なな立ち位置。

 

僭越ですがいくら神格の高い御祭神が祀られていても職員に首をかしげるようなことがあれば私はもう足を運べなくなります。

 

そもそもそんなふうになっている寺社仏閣は、御祭神や御本尊が弱まっていたり離れてしまっています。

 

そしてしばらく時を得て、思い出したようにふと行きたくなった時は、不思議なことに職員が入れ替わっていて神社の波動も少し元に戻っていたりするものです。

 

この神社では、私も神職として“人の振り見て我が振り直せ”ということを再認識させていただきました。